しんえいたいしゅうとう
1946/06/--~1947/12/12

[政党・会派] [政党・会派一覧(記事リスト)]
★概要 1946年に真木康年(康平)を中心として結成された右翼政党。 実態としては思想無き政治ゴロ政党だと云われている。 真木は元々はコックだったが、戦後、戦災者の救済と称して浅草で厚生寮の設置や炊き出しを行った。 しかし、実態としては弱者ビジネスであり、厚生寮や炊き出しは極めて粗末なものだったにも関わらず、戦災者には暴利とも言える多額の金品を要求していたが、この慈善事業で知名度と大金を手に入れた真木は日本自由党(1945)へと接近して、自由党院外団(自由クラブ)の幹部にもなり、1946総選挙では日本自由党から出馬した。 この選挙では落選したが、選挙後に独立して、民主主義と反共産主義を標榜する「新鋭大衆党」を結成した。 数百人の党員数を標榜していたものの、無理やり党員にされた厚生寮の住人ばかりだったとも云われており、実態としては真木の個人政党的な存在だった。 1947年の2・1ストの直前には、2名の党員が産別会議議長の聴濤克巳の下を訪れてスト中止を要求したが、要求が聞き入れられなかったとして、聴濤を切りつけて重傷を負わせる事件を起こしている。 この2名は事件翌日に真木党首に連れられて自首しているものの、この事件で名を売ったことで、全国から入党希望者が殺到したという。 1947総選挙では真木が唯一の党公認候補として出馬して落選しているが、供託金没収は逃れている。 総選挙後、労働団体が皇居前広場でのメーデー開催を予定していると知ると、労働団体より先にメーデー当日の皇居前広場の使用許可を得て打倒共産党国民大会を開催し、メーデーの催しを妨害した。 しかし、次第に暴力団まがいの行動が目に余るようになり、1947末に超国家主義団体として解散を命じられた。 まもなく真木は恐喝・物資横流し・銃所持など多数の事件で逮捕され、1948年には実刑判決を受け、その後、1949年に獄死している。
★役員 ---------------------------------------------------------------- 党首:  真木 康年 他役員: 藤田 求馬・遠山 直樹・斉藤 正久・中川勝太ら ---------------------------------------------------------------- *真木康年の名を「康平」とする資料もあるが、別名なのか誤植なのか不明、両者を併記する資料もある
★選挙 ---------------------------------------------------------------- 1947総選挙: 0/ 1 : 真木康年@東京01 ----------------------------------------------------------------