ごけん ひろしまのかい

1992/07/02~???

[政党・会派] [政党・会派一覧(一括版)]
★概要 1992参院選を前に日本社会党広島県本部の一部が結成した革新系地方政党。 この選挙の広島県選挙区では連合の会の小西博行が野党統一候補となったため、社会党は独自候補を擁立しなかった。 小西の本籍がPKO法案に賛成していた民社党であることから、左派系が強い党県本部はこれを不服として党本部に独自候補擁立を要求したが、党本部は野党共闘路線を変更せず、比例区現職の野田哲を広島県選挙区に鞍替え出馬させる案もあったが、野田がこれを辞退して引退を表明したため、県本部は最終的に独自候補擁立を断念した。 しかし、この決定を受け、左派強硬派は独自の動きを強め、党所属町議で党県役員を務めていた栗原君子がPKO法反対を唱えて出馬を表明。まもなく原水禁などの支援を受けて、参院選出馬のための政治団体として「護憲 ヒロシマの会」を結成した。 党県本部は実質的に栗原を全面的に支援し、衆議院議員の土井たか子も応援に入ったが、社会党は公式には小西に推薦等を出していなかっため黙認するしかなく、栗原は事実上の社会党候補となった。また県教組や全水道など社会党系の労組もこぞって栗原支持を表明したため、連合広島は分裂状態となった。 広島県選挙区は定数が2議席だったが、栗原と連合候補が2議席目を争う構図となったため、両者は選挙戦でもお互いを非難し合い、この参院選での野党分裂を象徴する選挙区となった。 選挙の結果、栗原が当選して小西が落選。さらに選挙後には社会党が栗原の参議院会派への入会を認めたため、社会党と民社党・連合広島との関係は決定的に悪化。連合広島は以後は社会党への選挙協力を行わないことを表明した。 護憲ヒロシマは、その後も暫くは政治団体として存続していたが、以後の活動は不明。 栗原は、1993総選挙後は連立政権の方針に流される党への批判を強め、政治改革法案採決で造反。1995年に社会党が綱領等を一新して社会民主党への改称を内定すると、離党して新社会党の結成に参加し、党県委員長に就任した。 1998参院選では議席を失い、2001参院選でも惨敗して国会議員には復帰できなかったが、2005年には新社会党の委員長に就任している。
★役員 ----------------------------------------------------------------- 代表委員: 森滝 市郎 原水禁議長 代表委員: 栗原 貞子 被爆詩人 代表委員: 河野 美代子 フェミニズム活動家 代表委員: 栗原 君子 熊野町議、社会党県本部役員 ----------------------------------------------------------------- *栗原貞子と君子を親族とする資料があるが正しいかどうか不明
★選挙 ----------------------------------------------------------------- 1992参院選: 1/1 : *栗原君子@広島選挙区 -----------------------------------------------------------------